奥村奈津美さんのインスタグラム写真 - (奥村奈津美Instagram)「#ヒロシマ2  #ヒロシマ1 の続き  8月8日  親類を探しに、朝早くから祖母も広島市内に向かいました。  爆心地から700mの所に、姉妹2人が住んでいたのです。  二日経っても安否が分からず、絶望的になりながらも、  地元の港から親類7,8人一緒に船に乗り込みました。  広島市内に近づくにつれて、海にも牛や馬が流れて浮いていました。  元安川から北上していったのですが、川には、まだたくさんの死体が浮いていました。  兵隊が船で死体を回収していましたが、下から次から次に浮き上がってくるのです。  原爆ドーム近くにある雁木から陸に上がりました。  見渡す限り何もない。  道にも真っ黒に焦げた死体が何体も転がっていて、真夏の暑さの中、異臭が漂っていました。  親戚の家があるはずの場所にたどり着きましたが、家は跡形もありませんでした。  そこらじゅうの土を掘って骨を探しましたが、見つかりませんでした。  ただ、その後、9月になってから分かったそうなのですが、  この親戚の二人は、奇跡的に生きていました。  二人とも、爆風で川に飛ばされたところを、兵隊の船で救助され、救護施設に運ばれていたのです。  一人は、翌10月に亡くなってしまいましたが、  もう一人は、それから30年生きました。  しかし、放射能の害を受けていたため、全身癌に侵されて亡くなってしまいました。     広島から30キロほど離れた玖波の町にも、被爆した人が何百人もトラックや電車でどんどん運ばれてきました。  広島市内の救護所に入りきれない被爆者たちです。  学校が仮救護所となり、負傷した人を薬もない中、火傷に食用油を塗ったり、  玖波の町の人たちが手当てをし続けました。もちろん、祖母も借り出されて看病しました。  体中、放射能に冒されているため、亡くなった人からは、毒ガスのような臭いがしたと言います。  終戦後、9月下旬まで負傷者の看病は続きました。  「看病した人が亡くなるということが度々あった。  おかしいなとは思っていたけれど、それどころじゃなかった。  今思えば、放射能の恐ろしさを知らなかったからこそ、救護に行かれた」  と、祖母は話します。  しかし、入市被爆、二次放射能の被害を受けた祖母は、それから原爆が齎した苦しみと闘い続けることになります。  9月に入った頃から、髪の毛が抜け、歯茎から血が出て、体がえらく(しんどく)なって…  2、3ヶ月、寝込んだそうです。  ドクダミなどの薬草を煎じて飲んだりしましたが、  その後も、低血圧、貧血がひどく、調子の良くない日々が続きました。  それから、10年以上経った昭和39年に子宮癌に、  そして、50年以上経った平成12年、副甲状腺の癌に、  さらに、60年以上経った平成20年、肺癌になりました。  数年前にも再び肺癌に。  あの一瞬の出来事が、その後、祖母の体を支配し、人生を左右しました。  一緒にいると「元気なおばあちゃんですね」と言われますが  でも、本当は常に病気と闘っている、ものすごく強い人、強いおばあちゃんなんでした。  病気になっても「またすぐ元気になるから」と前を向いて乗り越えている  祖母を心から尊敬しています。  原爆で焼け野原になった広島は、大きな町へと復興しましたが、  78年経っても消えない苦しみがあり、  それに耐えながら生きている人たちがいます。  原爆さえなければ…  祖母の話を聞いていると、その思いばかり強くなります。  ただ、思いとは裏腹に  世界の核兵器は無くならないですし、 ロシアのウクライナ侵攻もあり 平和とは程遠い状況です。    「核と人類は共存できない」     78回目の原爆の日  あなたは何を思いますか?  最後まで読んでくださり、ありがとうございました。  写真は、祖母と最後に会えたときに撮影したもの。  2022年3月 永眠  #ヒロシマ #広島 #hiroshima #86  #原爆の日  #原爆ドーム @hiroshima_city_official」8月6日 1時59分 - natsumi19820521

奥村奈津美のインスタグラム(natsumi19820521) - 8月6日 01時59分


#ヒロシマ2

#ヒロシマ1 の続き

8月8日

親類を探しに、朝早くから祖母も広島市内に向かいました。

爆心地から700mの所に、姉妹2人が住んでいたのです。

二日経っても安否が分からず、絶望的になりながらも、

地元の港から親類7,8人一緒に船に乗り込みました。

広島市内に近づくにつれて、海にも牛や馬が流れて浮いていました。

元安川から北上していったのですが、川には、まだたくさんの死体が浮いていました。

兵隊が船で死体を回収していましたが、下から次から次に浮き上がってくるのです。

原爆ドーム近くにある雁木から陸に上がりました。

見渡す限り何もない。

道にも真っ黒に焦げた死体が何体も転がっていて、真夏の暑さの中、異臭が漂っていました。

親戚の家があるはずの場所にたどり着きましたが、家は跡形もありませんでした。

そこらじゅうの土を掘って骨を探しましたが、見つかりませんでした。

ただ、その後、9月になってから分かったそうなのですが、

この親戚の二人は、奇跡的に生きていました。

二人とも、爆風で川に飛ばされたところを、兵隊の船で救助され、救護施設に運ばれていたのです。

一人は、翌10月に亡くなってしまいましたが、

もう一人は、それから30年生きました。

しかし、放射能の害を受けていたため、全身癌に侵されて亡くなってしまいました。



広島から30キロほど離れた玖波の町にも、被爆した人が何百人もトラックや電車でどんどん運ばれてきました。

広島市内の救護所に入りきれない被爆者たちです。

学校が仮救護所となり、負傷した人を薬もない中、火傷に食用油を塗ったり、

玖波の町の人たちが手当てをし続けました。もちろん、祖母も借り出されて看病しました。

体中、放射能に冒されているため、亡くなった人からは、毒ガスのような臭いがしたと言います。

終戦後、9月下旬まで負傷者の看病は続きました。

「看病した人が亡くなるということが度々あった。

おかしいなとは思っていたけれど、それどころじゃなかった。

今思えば、放射能の恐ろしさを知らなかったからこそ、救護に行かれた」

と、祖母は話します。

しかし、入市被爆、二次放射能の被害を受けた祖母は、それから原爆が齎した苦しみと闘い続けることになります。

9月に入った頃から、髪の毛が抜け、歯茎から血が出て、体がえらく(しんどく)なって…

2、3ヶ月、寝込んだそうです。

ドクダミなどの薬草を煎じて飲んだりしましたが、

その後も、低血圧、貧血がひどく、調子の良くない日々が続きました。

それから、10年以上経った昭和39年に子宮癌に、

そして、50年以上経った平成12年、副甲状腺の癌に、

さらに、60年以上経った平成20年、肺癌になりました。

数年前にも再び肺癌に。

あの一瞬の出来事が、その後、祖母の体を支配し、人生を左右しました。

一緒にいると「元気なおばあちゃんですね」と言われますが

でも、本当は常に病気と闘っている、ものすごく強い人、強いおばあちゃんなんでした。

病気になっても「またすぐ元気になるから」と前を向いて乗り越えている

祖母を心から尊敬しています。

原爆で焼け野原になった広島は、大きな町へと復興しましたが、

78年経っても消えない苦しみがあり、

それに耐えながら生きている人たちがいます。

原爆さえなければ…

祖母の話を聞いていると、その思いばかり強くなります。

ただ、思いとは裏腹に

世界の核兵器は無くならないですし、
ロシアのウクライナ侵攻もあり
平和とは程遠い状況です。


「核と人類は共存できない」



78回目の原爆の日

あなたは何を思いますか?

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

写真は、祖母と最後に会えたときに撮影したもの。

2022年3月 永眠

#ヒロシマ #広島 #hiroshima #86
#原爆の日
#原爆ドーム
@hiroshima_city_official


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2023/8/6

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