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小林悠のプロフィール

名前:小林悠(サッカー選手)
生年月日:1987年9月23日
出身地:東京都

母子家庭で育ち、1つ上の兄がいる小林悠。兄が小学校に入学するときに友人とサッカーを始めたのをきっかけに、当時保育園の年長だったが自らサッカーをやりたいと言って、兄と一緒に地元のサッカー少年団である「町田SSS」に入団し、サッカーの基礎を学んでいた。小学生にあがると、次第にその頭角をあらわすようになり、ほかの6つのクラブと小林悠が所属していた町田SSSの7クラブの選抜メンバーで構成された町田JFCでの練習にも参加するほど成長した。というのも、町田JFCは通常、小学校5・6年生のみで構成されるチームだが、小林悠が町田JFCに加入したのは、小学校4年生のとき。つまり、飛び級で地元の選抜クラブでの練習にも参加していたというのだ。
町田JFCの練習は、サッカーの基本がメインで、参加するにはリフティングしながら50mほどのグラウンドを、ボールを落とさずに往復できないといけなかったそうだ。小林悠は当時、リフティングがあまり得意ではなかったことと、基礎の練習をしたいと、同級生の小野寺達也と毎日1時間ほど朝練に励み、リフティングの練習に励んだそうだ。そのため、小林悠も小野寺達也も小学生ながらもリフティングがかなり上達し、毎年初蹴りで行われるリフティング大会では小野寺達也がぶっち切りの一位を取るほどに。小林悠も小野寺達也の5000回にはおよばないながらも連続で1000回できるほど、小学校でリフティングの苦手を克服した。
苦手だったリフティングをここまでできるようになったのは、小林悠本人曰く、「負けず嫌い」のところが大きいとか。勝つことにこだわっていた小林悠は、練習のミニゲームで負けても泣いてしまうほど、些細なことでも負けるのが本当に嫌だったそうだ。そのため、負けるたびにもっと上手くなりたいという気持ちで練習に取り組むようになり、練習を重ねることでどんどん実力をつけていったそうだ。そのため、小学生ながらも小林悠は東京都選抜や関東選抜に呼ばれていたため、地元である町田のサッカー少年たちのなかでは有名な存在だった。

2つのクラブの掛け持ちと、選抜に選ばれるほどの実力で自分のサッカーに自信を持っていた小林悠だが、中学校に入ると状況は一転する。中学校にあがると同時に「町田JFCジュニアユース」へと進んだ小林悠は、小学校では周りの目を引くほどだったのに、周りのサッカー少年たちがどんどん背が伸びていたにも関わらず、小林悠はこのころあまり大きくなかったようで、次第にその存在が埋もれてしまったのだ。小学校時代に注目を浴びた経験もあり、そのころから小林悠はプロサッカー選手の夢を抱いていたため、中学校で自分の身体的な成長が止まってしまったことで一瞬プロサッカー選手になることを諦めたほどだったそう。しかし、負けず嫌いの小林悠はそこから自分の武器はフィジカルの強さではなく、技術、と方向転換をし、中学時代は徹底的に技術を磨く練習に打ち込んだそうだ。中学校時代はフィジカル面が弱みだったため、足の速い選手にパスを出すこと意識し、周りの選手を使って試合を動かすことや、相手にぶつかられないようにスイッチすることを意識していたそうだ。そうして自分のサッカーを構築していった小林悠は、高校進学に向け、川崎フロンターレユースを受験。しかし、小林悠は川崎フロンターレユースの先行から落ちてしまうのだ。中学校に入り、フィジカル面での挫折を味わったうえ、川崎フロンターレユースへの入団もできないことで、中学校時代は、小林悠にとって“暗黒時代”となったようだ。
そんな状況でもサッカーを諦めなかった小林悠は麻布大附属渕野辺高(現麻布大附属高)へと進学。麻布大附属渕野辺高のサッカー部でサッカーを続けることとなった。高校に入ると大きな悩みだった身長が伸び、スピードやジャンプ力がつくなどフィジカル面で成長したことで小林悠のサッカーのスタイルも変化。小さな身体で戦うために磨いたパスワークではなく、点が奪えることが大きな強みへと変わっていったのだ。そして高校2年生で迎えた2004年、神奈川県予選で麻布大附属渕野辺高は初優勝を果たし、麻布大附属渕野辺高史上初の全国高校サッカー選手権への出場を果たしたのだ。麻布大附属渕野辺高のはじめての全国高校サッカー選手権への初出場は、岡山県代表の玉野光南高との試合で、0-2で負けてしまい、全国大会優勝の夢は儚く散ってしまった。

2004年の全国高校サッカー選手権への出場では、吹雪のなかでの試合ということもあり、チームの持ち味であったボールをつなげるプレーができず、破れてしまったが、この悔しさをバネに2005年の全国高校サッカー選手権への出場も獲得し、全国高校サッカー選手権に2年連続出場を果たしたのだ。しかし、2005年の全国高校サッカー選手権の初戦もサドンデスまでもつれ込んだPK戦で敗北するなど、悔しい結果となり、なかなか夢の舞台を駆け上がる機会には恵まれなかったものの、高校時代は多くのチャレンジに恵まれたようだ。そして高校卒業後の進路に拓殖大学を選択。拓殖大学を選択した理由は、麻布大附属渕野辺高サッカー部の1つ上の代のキャプテンが拓殖大学に進学したこともあり、その先輩がいたからプロの道は半分諦めてしまったものの、自分もサッカーを続けようと思ったからだそうだ。拓殖大学への進学をきっかけに、小林悠は MFからFWに転向し点を取るストライカーとして活躍するようになると、大学1年生のころからスタメンに入れるようになり、新人賞を獲得したり、関東選抜に入るなどで注目を集めるようになると、Jリーグのスカウトマンたちが小林悠を見にくるようになったのだ。そのため、大学1年の終わりから、小林悠はまたプロサッカーを意識するようになっていった。
小林悠に転機が訪れたのは2008年の夏。当時大学3年生だった小林悠に、J2のクラブチーム「水戸ホーリーホック」から特別指定選手としてのオファーが来たのだ。そして同年7月からは水戸ホーリーホックに所属が決まると、主力選手たちの怪我での離脱もあったため、7月20日にはヴァンフォーレ甲府戦でJリーグデビューを果たすこととなった。水戸ホーリーホックで試合出場は5試合だったものの、大学4年生にあがった小林悠にはなんとJ1のクラブ「川崎フロンターレ」からのオファーが。大学の4年間、真剣にサッカーと向き合おうとしてきた小林悠は、ついにプロサッカー選手への切符を獲得し、大学卒業後からは川崎フロンターレへの所属が決まったのだ。

2010年シーズン、華々しいスタートを切るかと思われた小林悠だったが、なんと正式入団前に右足前十字靱帯を負傷する怪我をしてしまい、2010年シーズンはリハビリからはじまった。小林悠はこの後もたびたび怪我に悩まされるサッカー人生を送るのだが、その序章だったのかもしれない…。川崎フロンターレへの入団前に怪我をしてしまったことで、契約が破綻してしまうことを不安に思った小林悠は、泣きながらチームに連絡を入れたほど。そんな小林悠に、担当スカウトは「怪我を含めてのオファー」ということを伝え、入団前に怪我をしたからと言って白紙になることはないと言われたそうだ。そのため、入団前にチームへの恩義が生まれ、絶対に恩返ししようと思ったそうだ。怪我で戦線離脱していたものの、同年9月に行われた第90回天皇杯2回線に出場し、2得点を挙げる公式戦初ゴールを決まるなど、その存在感をあらわにした小林悠。期待の新人に、川崎フロンターレは翌シーズンから背番号「11」番を背負わせると、プロ2年目で小林悠は年間12点を獲得。その後も順調に活躍を見せると、2014年シーズンでも2桁の得点を獲得する好調さを見せた。そして2014年4には日本代表候補に初選出されたのだが、代表合宿前の練習で左内転筋を負傷し、日本代表候補合宿を辞退。それでも10月に日本代表に初招集され、同月に行われたキリン・チャレンジカップのジャマイカ戦で日本代表デビューを果たした。
2015年シーズンはJリーグでのモンテディオ山形戦で負傷してしまったり、サンフレッチェ広島戦を控えたウォーミングアップで右半月板損傷をしたり、浦和レッズの試合で負傷したりと怪我に悩まされたシーズンとなり、日本代表を離脱せざるをえなくなった。しかし2016年には同じくFWの大久保嘉人とともに2トップとして得点を獲得し、クラブ新記録となる6試合連続得点を挙げるなど大きな活躍を見せた。怪我で見送ることの多かった日本代表としてのプレーも、2016年3月の2018 FIFAワールドカップ・アジア2次予選の代表発表で復帰すると、6月のキリンカップサッカー2016のブルガリア戦で日本代表として初先発出場を果たした。Jリーグでの活躍と日本代表としての出場経験から、同年は複数のJリーグのクラブから移籍のオファーが来たものの、川崎フロンターレへの恩義は厚く、小林悠は川崎フロンターレへの残留という答えを出した。

2017年シーズンになると、小林悠は川崎フロンターレのキャプテンに就任。キャプテンとして迎えたこのシーズンの開幕戦では、シーズン初ゴールを決めるなど、幸先のいいスタートを切ると、12月の大宮戦でハットトリックを決め、川崎フロンターレをクラブ史上初のリーグ優勝へと導き、Jリーグの得点王にはじめて輝いたのだ。2017年はEAFE E-1フットボールチャンピオンシップ2017に日本代表として出場すると、代表初得点を決めるなど、好プレーに恵まれたシーズンとなった。ロシアワールドカップ本戦に出場するメンバーの1人としても選出されていることもあり、小林悠は日本代表のなかでも点が期待されてる選手だ。
そんな小林悠は2012年に大学時代から交際していた石田直子さんという一般女性と結婚している。いまや奥さんとなった石田直子さんとの交際期間は約4年で、2013年1月に結婚式が挙げられたとか。結婚に至った年は、リーグ戦で12点もの大量得点を挙げたプロ2年目。乗りに乗っていた小林悠は、シーズン真っ只中の自身の誕生日に現在の奥さんにプロポーズし、無事結婚へと進んだそうだ。結婚生活は順調で、2014年には長男、2016年には次男が誕生し、小林悠はじつは結婚生活のなかで2児の父になったのだ。結婚生活も安定しているようで、しっかり結果を残している小林悠。若い世代が台頭してきた日本代表ではあるが、まだまだ小林悠の活躍の機会を待っているファンたちは多い。これからは川崎フロンターレの小林悠ではなく、日本代表の小林悠として点を重ねていくことを多くのサッカーファンが望んでいるようだ。

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