岩間瞳さんのインスタグラム写真 - (岩間瞳Instagram)「あの日  とっても個人的なことを筆の進むままに書きますので 飛ばしていただいて構いません。 ただ整理したい気持ちがずっとあって いつかどこかで自分のために残しておきたいと 思っていたので書いてみます。  あの年は大学1年生の春休み。 あの日の2日前、一人暮らしの家がある福島から 実家のある宮城の大河原町に電車で帰る途中 揺れにあいました。 長い時間運転見合わせになって 電車に閉じ込められて参ったな〜くらいにしか 思っていなかった3月9日。  その2日後、あの日は 祖父と二人で実家にいました。 揺れのあとはすぐに家族で集まることができたけれど ライフラインが止まり 真っ暗のなか余震が続く夜は不安でした。  1ヶ月後、大学が再開することが決まり みんなに会いたくて福島に戻ったけれど なんとなく雰囲気が変わっていました。 壊れたものを見たわけではないけれど 何かが違っていたように感じた。  その後の大学生活も福島で過ごし (後半は宮城から通った)  あの日から4年後、 福島で今の"伝える"仕事に就きました。  新人ということもあって ただがむしゃらに過ごす毎日のなかで いろいろな人の話を聞いた。 あの日大きな揺れを経験した人、 大切な人を亡くした人、 波に大事なものをさらわれた人、 ふるさとに戻れなくなった人、 家族のためにふるさとを離れた人、 ほとんど記憶はないのに遠く離れた場所を いつまでもふるさとだと語る人、 なりわいを守ろうとする人、 こんなところには書き切れないくらい いろいろな話を聞きました。  ある人に話を聞いたとき 「放送でその気持ちを伝えませんか」と相談したら 「私なんか全然。もっと大変な思いをしている 人がたくさんいるから私はいいです」と。 あの日の出来事に 私なんか、とか決してないと思っていて 誰もがその傷ついた引っかかる気持ちを 抱えているのだと思っています。  ただ 5年、いや大学時代も含めると 福島で9年間生活したけれど 今考えても何もできなかったし 全て理解することもできなかったと思います。  そしてあの日から9年が経って ふるさとのここ宮城に帰ってきた。  あの日私は宮城にいたし 少しくらいは分かることが あるかもしれないと思いました。  でもあの日から10年目、沿岸地域に行ったとき やっぱり何も分かっていないと愕然とした。 世間話のなかであの日の話になって 「昼間は雪が降って寒かったけど 星空はとても綺麗でしたね」と 私は言いました。 真っ暗い空に浮かぶ星が 悲しくて不気味で、でもきれいで とても印象的だった。 そうすると相手の方は 「波に流されていたから分からない」 「電柱に一晩中捕まっていたから 空なんて見上げる余裕なかったよ」 と困ったように笑って話すのです。 本当にその通りでした。 私は一体何を言っているのか。  あの日の経験も気持ちも 1人1人違うのに 何を共有できると思っていたのだろうか。  それ以来、話すのが怖くなりました。 取材で出会う人たちはもちろん、 画面の中でも「前を向いて進む人の話」を すごいですね、素敵ですねと言ってしまえば 「今も立ち止まったまま動けない人」は どう思うだろうか。 形が変わって復旧が進むまちを よかったと思う人がいれば 寂しくてつらいと思う人もいる。 当たり前のこと。  地域によって、 そしてひとりひとり、 本当に違うのです。本当に。  私は「被災地」とか「被災者」、 「震災から何年」とかいう言葉が あまり好きではありません。 そういう固有名詞?みたいなものに 全て括られている気がしてしまうのです。  今も話を聞いたり語りあったりするのは怖いです。 あの日の話やこの12年の話も 聞くのはすごく怖いです。 無知な私が迂闊な言葉で 傷つけてしまうのが本当に怖い。 この仕事って意味あるのかなとも思った。  でも きちんと聞かないと知ることができない。 そして 共有・共感できなくても仕方ない、 だって私はその経験をしていないのだから。 そう思ってからは 少しずつ話ができるようになってきました。  今もとても怖いです。 しかし今ふるさとにいて、 これまでも毎年ずっと伝える仕事ができていること、 それってそういうことなのでは。 私にできることをやるべきでは。 とも思うのです。  あの日を忘れないというけれど ここに住んでいる人は絶対忘れない。 むしろ思い出したくない人もいると思う。 でも、ここではないどこかで 忘れてしまう人がいるならば そして未来に生きる人がいるならば 伝え続ける必要があるのだと思います。  これまでわたしの不用意な発言で 傷つけてしまった方がいらしたら 本当に申し訳ありません。 未来のために、 未来に生きる人たちのためになることを これからも探して 私にできることを続けていきたいです。  ちなみに写真は 1枚目→先日訪れた南三陸町歌津の海 2枚目→2017年のいわき市小名浜の海 3枚目→運行再開直前の2017年2月の常磐線の小高駅 4.5枚目→帰還困難区域の双葉町 ...これいつの写真だと思いますか? 2017年です。あの日から6年経っているのに 町はそのままでした。心がちぎれるようでした。」3月10日 23時30分 - iwama1313

岩間瞳のインスタグラム(iwama1313) - 3月10日 23時30分


あの日

とっても個人的なことを筆の進むままに書きますので
飛ばしていただいて構いません。
ただ整理したい気持ちがずっとあって
いつかどこかで自分のために残しておきたいと
思っていたので書いてみます。

あの年は大学1年生の春休み。
あの日の2日前、一人暮らしの家がある福島から
実家のある宮城の大河原町に電車で帰る途中
揺れにあいました。
長い時間運転見合わせになって
電車に閉じ込められて参ったな〜くらいにしか
思っていなかった3月9日。

その2日後、あの日は
祖父と二人で実家にいました。
揺れのあとはすぐに家族で集まることができたけれど
ライフラインが止まり
真っ暗のなか余震が続く夜は不安でした。

1ヶ月後、大学が再開することが決まり
みんなに会いたくて福島に戻ったけれど
なんとなく雰囲気が変わっていました。
壊れたものを見たわけではないけれど
何かが違っていたように感じた。

その後の大学生活も福島で過ごし
(後半は宮城から通った)

あの日から4年後、
福島で今の"伝える"仕事に就きました。

新人ということもあって
ただがむしゃらに過ごす毎日のなかで
いろいろな人の話を聞いた。
あの日大きな揺れを経験した人、
大切な人を亡くした人、
波に大事なものをさらわれた人、
ふるさとに戻れなくなった人、
家族のためにふるさとを離れた人、
ほとんど記憶はないのに遠く離れた場所を
いつまでもふるさとだと語る人、
なりわいを守ろうとする人、
こんなところには書き切れないくらい
いろいろな話を聞きました。

ある人に話を聞いたとき
「放送でその気持ちを伝えませんか」と相談したら
「私なんか全然。もっと大変な思いをしている
人がたくさんいるから私はいいです」と。
あの日の出来事に
私なんか、とか決してないと思っていて
誰もがその傷ついた引っかかる気持ちを
抱えているのだと思っています。

ただ
5年、いや大学時代も含めると
福島で9年間生活したけれど
今考えても何もできなかったし
全て理解することもできなかったと思います。

そしてあの日から9年が経って
ふるさとのここ宮城に帰ってきた。

あの日私は宮城にいたし
少しくらいは分かることが
あるかもしれないと思いました。

でもあの日から10年目、沿岸地域に行ったとき
やっぱり何も分かっていないと愕然とした。
世間話のなかであの日の話になって
「昼間は雪が降って寒かったけど
星空はとても綺麗でしたね」と
私は言いました。
真っ暗い空に浮かぶ星が
悲しくて不気味で、でもきれいで
とても印象的だった。
そうすると相手の方は
「波に流されていたから分からない」
「電柱に一晩中捕まっていたから
空なんて見上げる余裕なかったよ」
と困ったように笑って話すのです。
本当にその通りでした。
私は一体何を言っているのか。

あの日の経験も気持ちも
1人1人違うのに
何を共有できると思っていたのだろうか。

それ以来、話すのが怖くなりました。
取材で出会う人たちはもちろん、
画面の中でも「前を向いて進む人の話」を
すごいですね、素敵ですねと言ってしまえば
「今も立ち止まったまま動けない人」は
どう思うだろうか。
形が変わって復旧が進むまちを
よかったと思う人がいれば
寂しくてつらいと思う人もいる。
当たり前のこと。

地域によって、
そしてひとりひとり、
本当に違うのです。本当に。

私は「被災地」とか「被災者」、
「震災から何年」とかいう言葉が
あまり好きではありません。
そういう固有名詞?みたいなものに
全て括られている気がしてしまうのです。

今も話を聞いたり語りあったりするのは怖いです。
あの日の話やこの12年の話も
聞くのはすごく怖いです。
無知な私が迂闊な言葉で
傷つけてしまうのが本当に怖い。
この仕事って意味あるのかなとも思った。

でも
きちんと聞かないと知ることができない。
そして
共有・共感できなくても仕方ない、
だって私はその経験をしていないのだから。
そう思ってからは
少しずつ話ができるようになってきました。

今もとても怖いです。
しかし今ふるさとにいて、
これまでも毎年ずっと伝える仕事ができていること、
それってそういうことなのでは。
私にできることをやるべきでは。
とも思うのです。

あの日を忘れないというけれど
ここに住んでいる人は絶対忘れない。
むしろ思い出したくない人もいると思う。
でも、ここではないどこかで
忘れてしまう人がいるならば
そして未来に生きる人がいるならば
伝え続ける必要があるのだと思います。

これまでわたしの不用意な発言で
傷つけてしまった方がいらしたら
本当に申し訳ありません。
未来のために、
未来に生きる人たちのためになることを
これからも探して
私にできることを続けていきたいです。

ちなみに写真は
1枚目→先日訪れた南三陸町歌津の海
2枚目→2017年のいわき市小名浜の海
3枚目→運行再開直前の2017年2月の常磐線の小高駅
4.5枚目→帰還困難区域の双葉町
...これいつの写真だと思いますか?
2017年です。あの日から6年経っているのに
町はそのままでした。心がちぎれるようでした。


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2023/3/10

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